「宗教・信条」 の 卒業時期 

必要なことが、必要な時に起きますと、
私の心理学の師匠は言った。
 
私の身の回りに在るもの(環境、人間関係)は、
その時の私に必要なものだったけど、
 
それが今変化しているなら、私が変化したゆえなのだろう。
 
私がビジネス上で尊敬する人は、
同窓会一切いかないとか、
卒業アルバム捨てちゃったとか、
割と「過去の人間関係に全く興味が無い」と言い切る人が多い。
 
それは、家族・親族、
果ては、宗教・信条の上であってもいいのではないか。

世界中どこの宗教も「改宗」というのは
家族親族とも縁を切らなければいけない、
またはその社会で生きていけない場合もある、
人によっては、
かなりの命がけな問題だ。
 
私にとっても それは「(精神的な)命がけ」だった。

私は、
ある宗教団体に家族全員が入会している家庭に生まれた。

一番の強信者は、母親で、
その母親自身が非常にカリスマ性があり、
別の宗教団体の教祖様のようなタイプで、

「○○様がこうおっしゃっている」
「○○にこう書かれている」

という、
いわば家庭内の規範のようになっていた。

私は3人兄弟の末っ子で、
同じ宗教団体の会員が経営する幼稚園に通い、
宗教団体が出版している朗読絵本(セロハンでできた簡易レコード「ソノシート」付き)を
恐らく50冊以上聴き漁り、(森繁久彌さんや黒柳徹子さんのナレーションだった)
小学校1年生で同級生を家に呼んで宗教の話を始めるなど、

かなりの宗教的英才教育を受けたおかげで、
私の人格の土台を創ってくれたと感謝している。
(教義以外に賛成していないが)

小学生の頃は大人の会合に出席しては教典の一部を朗読し、
中学から役職に付き、学業とアルバイトをしながら、
時には夜11時まで活動し、

社会人になっても
役職があるから、海外旅行は(遊びでは)できないと堅く信じていたし、
彼氏から「俺と宗教とどっちをとるのか」と迫られるほどの活動優先だった。

DV酒乱夫を殺す計画をした晩、
実行しなかったのは、
「宗教団体の反対派が喜ぶから止めよう」だった。(今想うと笑える)

その頃深く信じていたのは、
「この信仰を休んだり、辞めると、不幸になる」ということだった。

次兄が私に暴力を振るうのも、
学校や職場でいじめにあうのも、
別れを告げた男性がほとんど全員ストーカーになるのも、
夫が酒乱で暴れるのも、
夫が仕事を転々とするのも、
常にお金が無いのも、
娘が重症アトピーになるのも、

全部、
「これは私の宿命で、状況が改善しないのは、私の祈りが足りないからだ」と信じていた。

後述するが、
紆余曲折あり、

今、
私はその宗教活動を一切していない。
 
鬱病からのリハビリ期に、
あらゆる他宗の教義を学び続けているうちに、
ふと、

「世界の主だった宗教の教祖は、全員たったひとつの同じことを言っているのではないか?」
という(私だけの今のところの)結論が出た。

外界を初めて見た感動で、

狭かった視野が、
本当の意味での世界が拡がった感じがしている。

非常に快適だ。

この感動を得られたのは、
まぎれもなく、

ひとつの宗教の教義を学び、
良くも悪くも
様々な実体験を積んだからこそ、
なので、

「ひとつの宗教・信条を卒業した」感がある。

きっとまだ奥が深いのかもしれない。
それこそ研究員になって
大学院で研究を続ける人もいるのかもしれない。

だけど、今、
私は卒業したいから卒業しました。

そんな、感じだ。
 
果たして不幸になっているかといえば、
あれほど「恐ろしいことが起きる」と思っていたのとは正反対の状態になれた。
 
視野は拡がり、
哲学的な思索が深まり、
母の独自の教義の解釈に基づく思想から
翻弄され、束縛され続けていたことから、
完全に解放された。
 
私の人生に起きた全てのことは、
今の私を創るに必要不可欠なことだった。
 
無駄なことはなにひとつ、無い。
全てに感謝。
 
 
 

「なぜ相談しなかったの?」という言葉について

一昨日、「離婚と昼逃げと別居とDVシェルター」について、

 

私を含めた4人で話す機会があった。

 

「なぜ相談しなかったの?」という言葉があって、

 (しばらく「逃げなかったの?」に脳内改ざんされていた)

その場では語り切れなかった感があり、

自分で今深掘りしている。

 

「母が『宿命から逃げるな』と言った。」

(30代までカリスマ教祖的な母の言っていることは全て正しいと思っていたので)

 

「宿命から逃げたらまた同じ状況(同じ酒乱男性に捕まる)になる。これは私の宿命であるから、私がここで我慢して、宿命転換をすべき。子供には手をあげてないから(私の目の前ではあげてなかっただけ)私さえ我慢すれば良い。酒を呑まなければ優しくて良い人だから、私がもっと努力して変われば、夫もきっと酒をやめてくれるハズ」

 

と考えていた。

 

ただ、これは「考え」であって、

「気持ち」ではない。

 

セラピストになるトレーニングでも、

「考えは脳、気持ちは心」と言われて、

その違いが全くわからなかったほど、

 

たぶん幼い頃から、

生き抜くために、

「自分の気持ち」を見ないように

してきたおかげで、

特に「辛かった時の気持ち」を思い出す

のがとても難しい。

 

逆か言えば

「自分のすべての感情、感覚を『麻痺』させてきたことで、やっと生きてこれた」

ので、

 

当然と言えば当然だが。

 

いま冷静になって

当時の自分の気持ちを振り返る。

 

「恐怖」

「罪悪感」

「諦め」

「無感覚」

 

こんな感じだろうか。

 

たぶん元夫は、

私のこの心理状態を作り上げるのに、

長けていたし、

 

私は幼少からの家庭環境から、

この心理状態になりやすく、

 

彼にとって私は、

コントロールするのに

最適な人物であった。

 

 

 

 

 

 

 

私は赤ん坊を殺しかけたことがあります。

私は幼い頃から、

「お前、聞いているのか!?」と

頰や頭を叩かれていた。

 

それを回避する策なのか、

ヒトの話を

「真剣なフリ」をして聞くようになった。

 

フリだから、

話が頭の中に入ってこない。

「また聞いてない!」と叩かれる。

 

そもそもカラダの中に

「私」がいることが少なかったように思う。

幽体離脱がデフォルト。

 


そんな状態だから更に

「ボーッとしてるんじゃない!」と叩かれる

 


痛みを感じないように

また

幽体離脱

夢と現実の境目が曖昧。

 


高校2年の時は、

歩きながら失神してた。

 


40代になって、

心理カウンセラーに

「それは解離状態」と言われた。

 


私は25歳で結婚した。

交際時から夫は酒乱だった。

 


酒を飲んでない時に、

催眠術師のような声で、

優しく穏やかに、

時には低い声で脅したりいなしたりしがら、

毎日毎日、

あらゆる言葉と声色と態度と表情を用い、

私を洗脳する。

 


「お金だけが幸せじゃないでしょう。」

「親に心配かけるんじゃない。」

「俺が仕事してないなんて言ったら、

    うちのお母さん心配して大変だから。

    北海道からすっ飛んでくるよ。具合悪くなるかもしれない。」

「あんたのお母さんにも、心配かけたらダメだよ。お父さんだけで手一杯でしょう。

親不孝しちゃダメだよ。もう俺たちは自立してるんだから。」

 


酒を飲んでは人格が豹変し、

暴れて家中の壁に穴が開いた。

 


首の座らない赤ん坊を、

手で縫った手作りのおぶいひもにくるんで

背中におぶい、

 


「殺される、殺される。」と呟きながら、

 


深夜の車通りの多い車道を

自転車で実家に逃げた。

 


実家には「旭川からカニ貰ったから持ってきた」と嘘をつき、

両親には、

何も言えなかった。

 


その長女が生後4ヶ月から4才くらいまで、

ステロイド副作用の重症アトピーだった。

1歳過ぎて発した言葉が、

「ママ」「まんま」の次は、「かゆい」だった。

 


次女を妊娠中の頃は、

断乳を勧められていたが、

長女が毎晩泣くので、

身体を掻き毟る手を私が押さえながら、

代わりにさすり、

母乳をあげて泣きやませていた。

 


出産後、酒を飲んだ夫が

20kgもある天然木のテーブルをひっくり返した。

それがガラス戸にあたり、

産まれたばかりの赤ん坊の上に

ガラスの破片が降り注いだことがあった。

 


その日を境にだろうか、

 


子供達の眼の前では、

夫は暴れなくなったが、

自分の部屋から怒鳴り声が聞こえてくる。

 


長女が2歳から3歳になるころ、

ステロイド副作用から

抗生物質の副作用が続き、

医師からは入院しないと

死ぬよと言われたほど劇症化したが、

 


入院したらステロイド点滴をすると言われ、

ステロンドの副作用で苦しんでいるのに、

更に薬漬けになるのはゴメンだと、

ステロイドを身体から抜く、

長野の有名な温泉を取り寄せて飲む、

飲泉療法に切り替えた時期。

 


全身の皮膚が膿んで、

背中に貼り付いたシーツを、

朝バリバリと剥がす。

一緒に薄皮が剥がれて、

部屋中にバラバラと粉が舞う。

 


毎日毎日「かゆいよー、かゆいよー」と泣き、

自分の左手首を右手で掻き毟る。

可愛い小さな手首の上に、

異様に大きなぶ厚いかさぶたが乗っかっている。

アトピー用手袋をしても自分で外してしまい、

掻き毟る、膿み、

また大きなぶ厚い、かさぶたになる。

 


毎日1時間しか寝ていない。

一日中意識が朦朧としている。

 


「明日仕事なんだから寝かせてくれよ!〇〇が可哀想だろ、泣かせるんじゃない!!!!」

 


最初は優しい口調が、

日に日に強くなり、

ついに怒鳴り声が普通になった。

 


「静かにさせなくちゃ、

    静かにさせなくちゃ、

    静かにさせなくちゃ、

    殺されちゃう、

    殺されちゃう、

    殺されちゃう、」

 


頭が真っ白になる。

 


娘の声が夫に届かないように、

頭をふわりと包むように、掛け布団を掛けた。

 


枕を掴んだ。

 


「キーーーーーーーーーン」

耳鳴りでハッと気が付いた。

 


急いで枕をどけると、

「プハァ」と息を吸う娘がいた。

 


息ができるようになった娘は、

また掻きやすい腕を掻き毟る。

 


わたしは、

娘をかきいだき、

声をあげずに号泣しながら、

娘のただれた腕を舐めた。

 


ザラついた薄皮が剥がれて、

舌にまとわり付く。

 


動物の母親のように、

しかし狂った人間のように泣きながら、

 


ひたすら舐めた。

 


温泉を飲ませ始めてから10日目に、

あの真っ黒なぶ厚いかさぶたがぼろっと取れて、

本来の真っ白なもちもちの肌が露われた。

 


4歳頃には、完治した。

9歳で離婚し、

 


今長女は23歳、

抜けるような白くきめの細かい肌は、

元重症アトピー患者とはわからない。

 


まだ当人を殺しかけた話はしていない。

 


いつか話すことがあるかもしれない。

 


父親が娘を虐待死させた事件で、

共犯とされた母親である、

船戸優里さん。

 


代理人の依頼で証言をした、 精神科医のツイートを読んで、思うことあり、

私がここに記したように。

「男らしさの呪縛」(森田ゆり先生)の記事を読んで/「怒りの鎧」を脱ぐ作業工程について 



私はDVシェルターにいたことがあって、その関係で、

当時、DV被害者センター支援や、
我が子に虐待をしてしまうお母さんをケアする活動をしていた、
森田ゆり先生の2Days セミナーに東京から大阪まで夜行バスで参加したことがある。

とても気さくな方で、
アメリカの福祉施設で暴れる子供たちのケアを長くしておられた経験を聴いた。

久し振りに森田先生の名前に目が留まり、この記事を読んだ。

池田小事件・宅間守の女性蔑視と大量殺人を生んだ「男らしさ」の呪縛
(現代ビジネスWEB版 講談社

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65074?page=3

「社会が男性、男子に表現を許している感情がひとつだけあります。 怒りです。」
の部分で、

「(女性である)私が幼い頃から最近まで、自分自身に知覚(表現までいかない)を許していた感情は怒りだけだったなぁ」ということに気付いた。

たとえ親友や母親であっても、
女性相手には一切本音も感情も表現せず、

交際相手や夫にだけ、(「怒鳴る年上の男性」限定)
「怒り」を表現することができるので、
「年上の男性が怒鳴る」というトリガー(引き金)をきっかけに、
数十年分の鬱積した感情が火山噴火するのだ。
それはもう自動的に。


そのエネルギーは凄まじく、
自分で自分の身体を攻撃しはじめる。

たとえば怒鳴ったり暴れたりしている時は
アドレナリンが出ているのか、
その痛みに気が付かないが、
ひとしきり興奮しおわったあと、その痛みに気付く。

インフルエンザ風に全身がこわばり、
重症のムチ打ちか筋肉痛に「一瞬で」なるのだ。

突然雷に打たれたかのようにビリっとなることもある。

この痛みは平均1か月間続く。

感情と痛みの持続時間は同じの様子だ。

これはキツイ。一ヶ月間ムチ打ち。

特に毎度右へ首が回らないので運転中に右から突っ込まれたこともある。


そんなんで「怒り」でヘトヘトな私は、
ある時、ヒーラーの友人にエンプティチェアをやってもらった。
 
私が2歳から17歳まで15年間、次兄から家庭内限定の暴力を受けていて、

(以下の病名は成人してからの精神科医や心理カウンセラーの発言より引用)

生後まもなくから6歳まで小児喘息、場面性緘黙症、
7~12歳まで多動症
17歳の頃は、自宅から駅まで歩きながら失神した。(乖離症状)

で、何を想ったかエンプティチェアで、
次兄の身体の中に入ってみたのだが、(真偽は割愛)

前述ムチ打ちと同様の、
しかも「永遠に続くであろうと感じる痛み」に耐えきれず、
「この役(次兄の人生)は私にはできないわー」と言って早々に降参した。

 

「あー、兄貴もなんか大変だったんだなぁ」と、

「『怒り』は自らの心身を蝕むのだな」と想った。

 

「怒り」を知覚も表現もせずに溜めておけば静かに精神的、身体的な病気になり、
「怒り」を知覚し、表現すれば、(たとえ他人に向けて表現しなくても。表現というよりは、怒りの表面化という感じ)全身ムチ打ちになる。
(字のごとく鞭で打たれたような感じ。上手いこと言うなわたし)


あまりいいことはないので、


森田先生の言う
仮面の下の「本当の感情」に目を向けていくべく、
10年以上取り組んでいるが、

この「怒り」のPowerが物凄くて、いまでもコントロールが難しい。

「怒りの仮面」は油断するとすぐに「それが本当の私の感情」かと思ってしまう。
「仮面」、いや、「鎧」といってもいいかもしれない。

「脱いだら殺されるレベルの恐怖から身を守るため」の「鎧」なのかもしれない。

実際にこの「怒りの仮面の下の感情に触れる」という作業は、
その鎧を脱ぐこと=死を意味するほどの、恐怖がある。

実際に脱いだら心身が軽くなり、「はぁー、(*´Д`)助かった」という感想が毎度だ。

「いままでなんでこれ着てたんだろ?」というほどの
あっけなさがあるのにも関わらず、

「これ脱いだら死ぬけんね!脱がせようとする奴も攻撃したる!」という勢いで

せっかくヒーリングしてくれてる最中も、

猛烈な眠気に襲われたり、
単なる「怒り」の引き金になった
具体的な話や相手の話(あいつが悪いの一本調子で)に逃げたり、
笑いや別の話でごまかしたり、
無感情、無機質なロボット反応になったりと、

「本当の感情に触れる」作業に対して、物凄い抵抗が起きる。



母が老いた理由

ずっとひとのお世話してきた

お母さん

 

ありがとう

ありがとう

ありがとう

 

いっぱい言われてきたね

 

こんどは

お母さんが

 

ありがとう

ありがとう

ありがとう

 

みんなに

たくさん言えるように

おばあちゃんになったのかも

しれないね